昭和四十五年四月十二日
X御理解第六十八節 「神参をするに雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならん。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行ぢゃ。如何に有り難そうに心経や大枝を上げても、心に真がなければ神に虚言を云うも同然ぢゃ、拍手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり、節をつけたりせぬでも人にものを言ふ通りに拝め。」
今、合楽で盛んに頂いております事は、お徳を受けるとゆう事だと思うのです。お徳を受けなければ、人間の本当の幸福がありえないからです。その為にひとつ本気で和賀心を頂こうとゆうのである。
そこで今日の六十八節をですね、こうゆう風に頂いたらどうでしょうか。神参りをするにとゆうのを、信心をするのにと、雨が降るから風が吹くからとゆう事、例えばどのような事があってもとゆう頂き方、そのどのような事でもえらいと思うてはならん、と、ここが一番大事な所だと思う、困ったと思うてはならん。
その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。
如何に有り難そうに、大枝や心経を上げても、如何に信心が分かったように云うても、と頂いた方がいいでしょうねぇ。信心は大変巧者な人が有ります。けれどもそのいかに、口先だけで分かったように云うても、心に真がなければ神に虚言を言ふも同然じゃ、と。知っておる事を真で行なわなかったら、それはまあ神さまに虚言を云うも同然じゃと。まあ、この辺の当たり迄が一番大事じゃないかと、こう思う。
神参りをするに、雨が降るから風が吹くから、偉いと思うてはならんと、そこでやはり信心が好きにならなければ、出来ん訳ですねぇ。稽古に通う事がおもしろうならなければ、楽しゆうならなければ雨が降れば、風が吹けばしろしいのですけれど、信心が身についていく事が有り難い、信心が分かっていく事が有り難い、とゆう事になって参りますと、信心が楽しいものになってくる。身についてくる事がよう分かる。一日でも御理解頂かなかったら、もう寂しい、と例えばゆうようになる。
ですから、そこ迄信心が参りますと、いわゆる偉いと思うてはならんとおっしゃる。偉いと思うどころか、かえって有り難いとゆう心が生まれて参ります、もう決め手はここです。お徳を受けるとゆう決め手は、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。
だから、この辺のところをひとつ本気でやはり身につける、本気で、それを身をもって体験する信心こそが有り難いんだと、そこから生まれてくる和賀心、神さまのいよいよ御信用がつきますねぇ。いわゆるお徳を受ける事が出来る。 天地の親神さまと教祖さまのいわゆる信じ、信じられなさったとゆうのも、その辺のところに有るように思うのですねぇ。いよいよ、この氏子ばかりは、云うならば、神さまももう試しようない程しに、本当に有り難い、有り難いと云いよるが、本当に有り難いとじゃろうかと、思うてちょっとお試しを頂くと、もうそれがぐらりして、いわゆるお試しに落第ばっかりしておる。そうゆうような場合に教祖さまは、もうお前ばかりは試しようがないと、神さまが云うておられます。
どんなに云うても、どんな事があっても、それを皆んな、有り難い、有り難いで受けていく、とゆう訳なんです。ひとつもえらいと思うてござらん。
今日は親戚の誰それが亡くなったら、親戚の者に連れのうて、いわゆる、さそい合わせておくやみに行けと、そこで、これは大変だとゆうので、近くの親戚を皆んな連れ合い、さそわれて、おくやみにおい出られた。
ところが、当の御本人が玄関の所から出てみえてから、「皆さん今日はお揃いで何事ですか」と云うて迎いに出られた。もうそれこそ教祖さまのお心のうちとゆうものはね、本当に穴でもあれば入りたい思いであったろうと思いますねぇ。
自分だけならまだしも、親戚の人達まで連れのうて、行っておられる。帰りがけに神さまが、戻しの風は十層倍、十層倍と云うて帰れとおっしゃった。もう神さまがまるきっり嘘を言うておられる。第1、それが死んだと、死んだどころがピンピンとしておる。神さまあなたは私にこんな嘘を言って、こんな恥ずかしい思いをさせなさってから、とゆう風には受けておられない。
戻しの風は十層倍、十層倍、ゆうならば、そうゆう時ほどです。深い神さまの御神愛が有る時だとしてですね。そこんところを有り難く頂いていく。
たとえて一年でお徳が受けられるものなら、まあ十層倍ですから。1カ月でおかげが受けられるとゆう感じが致しますねぇ、一年かからなければ例えばお徳が受けられないのが、1月間、十層倍、戻しの風は十層倍ぢゃと、そのような生き方でどんどん天地の親神さまのお心の中に、くい入って行かれたとゆう感じ。
今日は、金を拾わすから、お弁当を作って玉島の方へ伺って行けと、毎日、毎日御神勤になっておられますから。今日は、外に出られるとゆう事は、大変珍しい事であったろうとこう思われます。神さまは金を拾わせるとおっしゃる。金を拾いたいからだけじゃなかろう。それで玉島にみえた時に丁度お昼になったから、あらためて又、神さまにおうかがいをされると、そこで弁当を開けと、こうおっしゃる。弁当を開き終わられると、これから今来た道を、戻れとこうおっしゃる。帰りもやっぱり、それこそお金が落ちとりやせんかと思うて、探し、探しお帰りになったんじゃないでしょうか。
帰られて御神前にぬかずかれてから、只今帰りましたと、御挨拶なさいますと、今日は金をいか程、ひろうたかんとおっしゃる。もう今日は がよめんはずはあるまい」「御承知の通り、毎日、お広前に相勤めますければ、血のまわりも悪うなり、健康もすぐれません訳ですけれども、今日は久し振りに外へ出させて頂きまして、御陽気を頂いて、血のめぐりを頂かせてもらい、これはもう、かえがたい健康のおかげを頂きまして有り難うございます。」とおっしゃった。
神さまあなたがたがおっしゃいましたが、どこにもお金は落ちてませんでしたよとはおっしゃらなかった。そうゆう、云わば受け方。
その時に神さまがねぇ、「その方ばかりは、もう試しようがない」とおっしゃった。「これからは本当の事を教えるぞ」とおっしゃった。
もう、どちらへ転んでも有り難いとゆう事だったんですねぇ、もうこれからは試されん、これからは嘘は云わんと、おっしゃっられてからでも、やはりお試しを受けておられますねぇ。この辺のところが、私は金光さまの御信心の一番肝心なところだと思いますねぇ、これ程信心するのに、なんんて心だから、さらさら起こってない。
その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、結局その身に徳を受ける修行、おかげを受けるとゆうのと、徳を受けるとゆうのは違う。昨日、ある方の所の霊さまは式年祭がございました信心の受け心と云うか、おかげの受け方と云うか、非常にその受け方でおかげになったり、又はそれが水泡に帰したり、とゆう事になる訳なんですけれども、まあ形の上に於いては、賑やかなお祭りですし、又思いが込めてないかと云うと、思いも込めてありました。
Z『神さまにお礼を申させて頂いておりましたら、お抹茶を頂きます時に、茶うけに洋かんか何か出ますよねぇ、それが昔、クロボーとゆうのが有りましたでしょう。昔は馬車引き洋かんとも云うとった。あのクロボーとゆうのは不思議にうす茶に合うのですよ、それはもう本当に合うのです。その茶うすとクロボーの茶うけを頂くのです。 次には、きゅうりにみそをつけておる、いわゆる、これはおつな食べものですよねぇ、もろきゅうと云います。もろにみそをつけて若いきゅうりを頂くのです。云うなら、きゅうりとゆう事はお徳と云いますか、信心と頂きましたら、いいでしょう。』
Z『 例えばね、みそをつけると申しますかね、それは失敗をするとゆう事、例えばみそをつけてもね、それがもうそれこそ、他の何ものよりもおいしい食べ物だとゆう事。信心させて頂いておって、みそをつけるとゆう事でも、それがかえっておかげになるとゆう場合がある。かえっておかげだとゆう事でしょう。 クロボーにうす茶とゆうのは、本当云うたらお客さんには出しません。やっぱり洋かんか何かの方がいる。しかし、各々が頂く時には、確かに合います。確かによう合いますから、クロボーでもいい、云うならそれだけ始末したとゆう訳です。洋かんを使うとこじゃないけれども、この位でよかよかとゆう事なんです。それが、本当によく合う、といったようなお祭りだった。 』
だから、霊さまも神さまも、それからお祭りを奉仕して頂かれたその家族の方達も本当によかったお祭りを頂いて霊さまも喜んで下さったろうとゆうようなお祭りであった。有り難い‥‥‥。
けれども、それは只その神さまも喜んで下さり、霊さまも喜んで下さり、自分達もお祭りを仕えて頂いて有り難かった、おかげを受けたとゆうだけに過ぎない。その事が徳を受けるとゆう事にはならん。
この辺のところはもう大変信心の機微と申しましょうかねぇ、普通の人ならばね、ちょっとひっかかるような感じがします。ひっかかったら、おかげ頂かんけれどもね、もうそれでよいと、何と云うですかねぇ、まあドライな考え方をしてる訳ですねぇ、割り切っているんです。だから、割り切っただけのやはりおかげです。
こうすると本なこつじゃなけれども、と云うて、ひっかかるとね、それはやっぱりおかげになりません。けれどもね、せっ角、それだけの事をする霊さまへのお祭りのお礼をね、式年祭でしたら、式年祭させて頂くなら、させて頂いた事が何事にも信心になれよとゆう日頃の信心にもの言わせてそれこそ思いいっぱいあふれるようなとゆう信心をさせて頂く時に、そのあふれるだけが徳になる。
私は今日は、ここで頂きます。お徳を受けていくとゆう生き方、これは只今ので云うなら普通の生き方でも、これは非常に深い意味が有りますねぇ、それをやっぱりおかげにしていっておるですねぇ、この人の場合。
けれどもお徳を受けると云うか。、日頃頂いておる信心を霊さまのお祭りを表すとゆう事になるとです。いわゆるクロボーじゃいかん、本当の洋かんでなからにゃいかんとゆう感じがします。
なる程金は、云うならば、千円でお祭りを仕える、まあこれが分相応だとゆう事になりましょうか、だから分相応じゃおかげがだけの事、けれどもね、本当に千円のお参りと思いよったけれども、あれを思いこれを思わせて頂きよったらお祭りがとうとう千二百円にも千三百円にもなった。かかったとゆう事、それがあふれる、そのあふれるところがお徳になる、今日のここのところにつながります。
信心とゆうのは、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、そこんところを少し抜けきるところが身に徳を受ける修行じゃとゆう事になるのです。大事な所でしょうが、只おかげがもうその場でしまえてしまうとゆう事なのですからねぇ。例えば、お金のおかげを頂いたとゆうところで、そのお金は使えなくなるとでしょうが。
けれどもその時に徳をい受けるとゆう事は、これはもうあの世に迄持ってゆけるとゆうものをそこで受けるのですから。しかもこの世に残しておけれるとゆうのですから、やっぱりどうでも徳を受ける信心にならなきゃいけんです。又、徳を受けなければ人間の本当の御信任、御信用、その受ける過信に於いてはです。只今、教祖さまの事を例をもって申しました。どのようなお試しを受けても、それを有り難く受けていくといったような、受け方、行き方、頂き方なんです。
私は信心の微妙なところはその辺だと思う。そこで、御神訓の食物訓に「食物は皆、人の命の為に、天地の神の作り与え給うものぞ」と有ります これは食物は皆人の命の為であるようにですね。様々な事柄、それは嬉しい事も悲しい事も辛い事も様々有ります。いわゆる雨が降っても、風が吹いてもとゆう事なんです。いわゆる私がここのところを、どのような事があってもとこう申しましたですねぇ、雨が降っても、風が吹いても、とゆうところを、どのような事があってもとゆう事。
だから、どのような事柄でも人の命の為に、食物が作り与えられておるようにです。私共の心の命とでも申しましょうか。自分の心をいよいよ、豊かにする健全にする、いわゆる徳をうけていく力を受けていく事の為に全てがあるのだとゆう事になる訳です。
これは食物だけの事じゃないです。日常の生活させて頂く上に様々な事が起こって参りますよね。それは、嬉しい事もあれば苦しい事もある、嬉しい事の時だけは有り難い、けれども苦しい時の時だけは有り難くないとゆうのではなくて、その苦しいなら苦しい事でもです。それをよく味わい吟味する。そこから、その難儀なら難儀、苦労なら苦労、苦しい事の中にです。味わいが分かってくる。その味わいこそがです。心の糧になり、それが心のいよいよ健全になり、心が豊かになりする働きをするものです。
食物は皆人の命の為に下さってあるように全て何事でも、どのような事柄でも人間の心が健全になる事柄の為に、お徳を受ける事の為にあるのだと、その全てがそれなのだ、と思い込ませてもらい分かりきらせて頂かなければ、本当の信心は頂かれん訳です。お徳を受ける信心とは云えません。云うなら、どうゆう事であってもそれを合掌して受ける心であれとゆうのです。
そうゆう信心こそ、そうゆう行き方でこそです。身に徳を受ける修行とゆう事になるのです。昨日の霊祭の事の例をもって申しましたがね、久留米の初代とゆう方は、大変なお徳を受けた方でありましたが、先生のお言葉の中に「ない袖はふられんと云うが、ない袖の下の袖をふれ」とおっしゃった。
ない袖はふられんと云うが、と信心させて頂く者は、そのない袖のもういっちょ向うの袖をふれと、それを分かりやすく云うとです。ここに千円がたのお祭りでよかとゆう事になる訳です。それは千円が有るとじゃけん。
けれども、お祭りを段々、本当に霊さまに喜んでもらおうと思うて、あれやら、これやらお供えものを買いにやらせて頂きよったら、あれも霊さまがお好きじゃったから、これもと思うていきよったら、ちゃんと千三百円になったと致しましょうか。
そこでまあ三百円は借金してきたとゆう事になる訳です。それはない袖の下をふった訳です。そうゆう生き方こそがね、お徳を受ける生き方だ。千円がたのお祭りはおかげを受けるだけの事。だから、神さまがもう知っちゃるけんでと、言ったら、もうそれまでの事なんだ。そこのところをです。おかげを頂いていかねばならん。
これはです。人間の幸せの根本になるものは、お徳を受けるとゆう事、お徳を受ける事によって、確かに和の心も賀びの心も生まれてくる。
そこでね、どげな事にでも、ない袖の下をふれと云うのじゃないですよ。ようそんな人が有りますよ。美しいと云うか、美しすぎるとゆう人が有る。もう何でん人にものやろうごとしてこたえん、なかったっちゃ有るふりしてやるとは、ない袖の下をふりよる訳です。
だからそのどこででも、ここででもそうゆう生き方をするのはいけないと、そげんとは云うなら馬鹿んごたる、そこんところの信心を表していかにゃいけん、どこにもここにもそうゆう生き方をする人は、いつも必ず貧乏致します。 貧乏するはずですよ。借金してからでん、どんどんせにゃおれんとですから。けれども、ここはとゆう時です。例えて云うなら、さあ大祭だと霊さまのお祭りだと、ここは真心でと例えば云う時にはです。私はそこのところのない袖の下の袖をふらせて頂くような信心こそです。そこんところの辛抱こそ、それこそが身に徳を受ける修行なのだ。
今日はもう大変難しい事を申しました訳ですけれどもね。けど皆さんそれをそうだと信じ込んでおかねばならんのです。信心させて頂く者は、そうゆう心がけとゆう者が、いつも私共信心の根底になからなければ、でないといざとゆう時に、さあ一本勝だとゆう時によかよかもうこん位でとゆう事になってから、「しもうた」と云うたっちゃ、もう遅か。
折角信心をさせて頂くのですから、おかげを頂くとゆう事だったら、私やもう大した事はなかと、こう思う。信心させて頂いて、本当に信心によって、お徳を受けていこうと、本当に信心を分からして頂いて、本当に神さまの御信用の受けさせて頂けれる私共にならせて頂こうとゆう精進、そこに信心の本当の尽きぬ喜びと云うか、尽きぬ楽しみとゆうものもそこにある訳です。
只、おかげであったら、おかげ頂かなかった時には、もう有り難くもなければ楽しゆうもない、ところが焦点がお徳である場合にはです。これによって又ひと徳受けたいったような喜びが湧いてくるのですよ。
私共の周囲周辺に起こってくる全ての例えば、食物も命の為に全てがそうなのですから、これは事柄でも、私共はねいわゆる心の命と云うか、私の心の上に下さる食べ物なのだ。
又はお徳を受けていく事の為の全てだと、ゆう事になるのです。如何に有り難そうに大枝や心経を上げても、心に真がなければ、神に虚言を言うも同然じゃと、どんなに信心が高尚になり分からして頂いても、例えば只今私が申して参りましたような事柄が、それが有り難く行じられるような信心させて頂く時に、そこに真を表したとゆう事になりましょう。
今日はその同然だとゆう、その辺のところを、ここに出ておる言葉を例えば神参りをするのに雨が降るから、風が吹くからとゆうところを、信心する者が、そのような風に頂きました。
そして皆さんの信心のひとつ根本のところにです。そうゆうところをしっかり心の中にたたみこんでおいて、どのようなお試しを頂いても、お試しに落芽する事のないような、もうお試しでも受けるとゆうような時にはです。
いよいよ向こうの方にはね、大きなおかげと云うか、お徳を下さろうとする前提なんですよ。
ですからね、そこんところをひとつ失敗せんように、信心の稽古を本気で打ち込んでさせてもらわなきゃならんと、思うがですね。どうぞ。